わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

数字にまつわるエトセトラ

わたしの好きな数字は「2」だ。2月生まれなので、「2」には勝手に親しみを感じている。また、「2」は書いても楽しい。平仮名の「ゆ」と同じく、きゅっと曲がるところと、丸く円を描くところ、リズミカルな緩急があって素敵だ。ところで、わたしの数秘術上の運命数は「8」らしい。「8」もなかなかいい。「2」の3乗、シンプルだが世界を描く最小単位というふうにも見える。そしてロックンロールはエイトビートだ!

というわけで、「8」角形の内角、135°の関係性をホロスコープ上に探していきたい。セスキコードレイト。45°(セミスクエア)と90°(スクエア)を合成した意味合いとされるアスペクトだ。調べてみても、あまり断定的な解釈は示されておらず、「弱い困難と緊張」とか「せずにおれない、という意味で病的な勢い」とか「禁止」とか、影響力の度合いの判定もさまざまだ。たぶん、ホロスコープを読み始めたばかりのわたしには荷が重いのだろうけれど、いつものように楽しく妄想を羽ばたかせることにしよう。

アスペクトの許容範囲は1°以下で、個人天体、ASC、MCだけチェックしてみる(マイナーアスペクトであまり手を広げすぎると、情報の取捨選択ができなくなる気がするので)。わたしの場合、木星(2ハウス・牡牛座)と海王星・MC(10ハウス・山羊座)がこれに該当する。木星は、ハードアスペクトでも「拡大」の意味は変わらないらしいので、セスキコードレイトでも同じく、「制限」は読まなくていいかもしれない。

牡牛座を身体性と捉えると、社会的な成功を目指すとき、身体感覚が狂いやすいということだろうか。例えば、仕事上のストレスから肥満になりがちであるとか。木星の際限のない膨張性がもっとも病的にあらわれるとすれば、肉体だろう。もしくは所有、財産のバランスを欠く暗示。妙な財テクに嵌まり込んで小金を失う、依存症にはならないまでもギャンブル行為に耽るなど。135°なので「激しい葛藤」ではなく「我慢できないほどではない煩わしさ」なのがポイント。

試練ではなく、ちょっとしたつまずき。急な坂道ではなく、十分に修繕されていない道路。注意していれば転ばないんだけど、よそ見をしていると足を取られる僅かな段差。もしかしたら大抵の挫折の原因は、こういう種類の困難なのかもしれない。そしてやり遂げられないことへの不満、で思い出したのが、こちらのブログだ。

https://licomama-kosodate.com/entry-11963547974

「子育ては自分の意思とは無関係に自分のやろうとしていたこと・したかった行動を子どもに遮られることの連続です。」

これこそが、セスキコードレイトのアスペクトをもっともよく表現している言葉なのではないか(全然ホロスコープの文脈ではなく、とても真面目な育児論なのだけれど)。達成感を得られない、ということがどれだけ人間にストレスを与えるかを、これほど明確に言語化できた人をわたしは他に知らない。

それは、徒労に終わるかもしれない。周りからも危機とは見られない。けれども確実に心と身体を消耗させ、時には回復不能なまでの抑鬱状態に追い込んでしまう。だから、もしかしたら、セスキコードレイトからはときどき逃亡を図るくらいがちょうどいいのかもしれない。うまく行ったと手応えを感じられる場所。やりたいことを表現して褒められる時間。小さく、短いテンポで充足感を得られることが必要だ。わたしたちはつい、苦労こそが努力なのだと考えたくなるが、障害を避ける工夫もまた努力なのだと信じたい。

それにしてもわたしの木星、MCにはセスキコードレイト、太陽にスクエアと、幸運の星のはずなのにむしろ土星以上の試練を与えてきているように思えてならない。こういう発想自体、個人天体のうち3つが水瓶座、1つが山羊座という、土星人間ゆえのものなんだろうか……

ふれてみたい

ふれ合うことが苦手で、でも好きだ。「人来るよ」とかで(親切で)背中を押したり、腕を引き寄せたりする場面でも、反射的にゾワッとなって払い退けたくなってしまう。でも冬の日に「手が冷たいねー」なんて話しながらお互いの手を握る、みたいなのは平気。一方、どれだけ親しい相手でもずっとくっついていたいとは思わない。電車の中では(できれば)距離を取りたいけれど、神経質に気にするほどでもない。自分の「身幅」感覚が鈍いのか、横をすり抜けようとしてぶつかったり、説明の最中に咄嗟に出た手振りが相手に当たったりすることがある。

トータルでは、ふれ合うことはそれほど得意ではないのかもしれない。ふれる・ふれられるは、アクシデントの形であらわれる。過敏なときもあれば、逆に鈍感すぎるときもある。モノの触感はどうか。わたしは特に素材にこだわるほうではない。でも、子どもの頃に親戚の家の土壁を爪でぽろぽろ剥がしておもしろがっていたなあとか、「山川出版社の歴史の用語集」のオレンジ色した表紙の手触りとか、不思議と消えない記憶もある。触覚はミステリーだ。体内の奥深くで、フックに引っ掛けられた状態で宙吊りにされている。

わたしは1室・牡牛座に火星がある。火星牡牛座は、とにかくふれていたいサインだそう。わたし自身は上記の通り、「ふれ合う」ことへの微妙な馴染めなさ・タイミングのズレがあり、「四六時中ふれていたい」に関しては完全にノーだと思う。水瓶座の太陽・月・金星と、牡牛座の火星・木星の葛藤が巻き起こっているのだろうか。わたしが「ふれ合う」で想像するのは、赤ちゃんを抱きしめるお母さんの像だ。包むことで包まれているような、見えないミルクの膜が世界と彼女らを隔てているような、幸福のイメージ。ふれること・ふれられることに、本当に心も身体も明け渡して安心をしてみたい、また安心を感じてもらいたい。そういう願望が奥底でふつふつと滲み出しているのかもしれない。

一方で、自分自身の「やわらかさ」への忌避感がある。ダイエットの名残りだ。だいぶリバウンドしてしまったので、肩の丸みとか、突き出した下腹とか、耐えられない部分はたくさんある。もう骨にふれることができない。まだ薄かった肉ごしに撫でさすった骨は、冷たく、硬く、わたしの正しさと強さを静かに肯定してくれていた。たぶんいまのわたしは、どれだけ他のことを努力したとしても、あのころの自己肯定感と自信を取り戻すことはできない。わたしは無意味で、だからこそ他に侵されない価値を確保してくれるルールから、徐々に脱落していった。それが過食などを伴う劇的なものでなかったことは、社会生活上は都合が良かったかもしれないが、わたしのわたしに対する失望感も呼び起こした。墜ちるときもだらしのない奴だ。

抱き合うには、お互いに「やわらかい」ほうがいいだろう。すっかりと、隅々までくっつくことができるから。そしていっさいの生命をあますところなく感じとることができるから。この「やわらかさ」はけして、肉体的なことを指しているのではない。わたしの心は、昔も今も硬い。占星術に興味を持っているが、リラクゼーションやヒーリングは苦手だ。リラックスをするにもある種の才能、もしくは訓練が必要なのではないか。美容院のマッサージや、温泉に浸かることは好きだ。素直に気持ちいい。だけど形のないものは不安だ。わたしのことをゆるしてくれる存在など求めていない、とも思う。常に脳みそに冷たい薬液を流し込んで、神経系に電気を張り巡らせて、覚醒させていてほしい。わたしが規律正しい人間だからではない、わたしが節操のない、不埒な人間だからだ。

ふれ合うこと。境界を曖昧なまま門扉を解放すること。与えられるのと同量を与えること。コントロールはできず、浸透圧に沿って自動的に感情は溢れ出していき、流れ込んでくる。わたしはやっぱりそれが、こわい。

Netflixの占いドラマをおすすめします

Netflixで伊ドラマ『傷ついた心に贈る占星術ガイド』を見たよ!おもしろかったよ!!という話。

「占い関係のドラマないかな〜」と探していたらヒットしたのがこちら。2シーズンさっくりのドラマなので見やすくてよい。占星術については、太陽星座+アセンダントの話もちらりと、作中ではバースチャートもつくっていたけれど前面には出さず、たぶん設定はしっかりあるので掘り下げる余地がありそうなのもおもしろい。そしてなにより主人公の立ち位置がうまい!天秤座女子!

わたしも最初は「へー天秤座女子なんだーおしゃれー!」くらいの印象だったのに、物語が進むにつれて「これは天秤座以外にないのでは?!」と考えるように。もちろん、天秤座の象意なので、全員に当てはまるわけではないのは前提として。まず、めちゃくちゃ活動宮じゃん!!!ということ。天秤座が活動宮、ってこれまであまり意識したことがなくて、スマートでガツガツした雰囲気のない天秤座とうまく結びつかなかった。でも、これって恋愛ドラマ、ひいては現代のヒューマンドラマに欠かせないキャラクターなんだなと納得した。

主人公は、職場でも恋愛でも、自分と相手だけじゃなく、二重三重に取り巻く人間関係をつぶさにチェックし、メンテナンスを欠かさない。「あのとき元気なかったのがなんか気になる」とか「不用意なことを言って怒らせちゃったかもしれない」とかを放置せず、あちこちに飛んで行ってはフォローして回る。相手への態度は、子どもに対するようであったり、ビジネス的に線を引いたり、時には毒舌を発揮してみたり、これも対象とタイミングによって様々だ。まさに、バランスを取る星座。風のサインの活動宮ってこういうことかー!

仕事もそう。一歩引いてトータルにコーディネートしていく。自分の個性を打ち出したいとか、相手を出し抜いて出世したいとか、そういうタイプの欲望ではない。でも、自分自身が公平に扱われていないと感じたときは憤然として戦う。怒っている場面の取りつくしまのなさ、笑っちゃうんだよなー。鼻面でシャッターをビシッと下ろされる感じ。あと、人間関係がうまく行っていないとなると、いくら上司から評価されていようともナーバスになって、すべてコントロールしていないと気が済まない(しかも権力欲ではなく、完璧主義から発しているので周りも口を出しにくい)という面が悪い方に出てしまう。きっと人間同士の信頼関係が心理的安全性につながるんだろうな。周りから評価され、仕事を任されているときの主人公は、本当に生き生きと輝いて見える。

基本的には一話ずつ各星座に当てられ、それぞれの星座と主人公(天秤座)との相性はどうか?というストーリー。恋愛相手がメインだけど、時には恋のライバルのケースもある。その星座ごとのキャラクターが、イタリア的(?)皮肉に満ちた描かれ方をしていて、「あーやめときなよ、絶対に合わないよ」とか主人公に声をかけたくなるから、占星術っておもしろい。本来なら何話もかけて掘り下げていくところを、なんとなく星座のイメージが浸透しているからこそ省略できる部分があって、ストーリーのテンポの良さに一役買っていると思う。

ヒーロー役の男性の星座はしばらく明かされないので、ミステリー要素もある。知識を総動員しながら推理をしていくのも楽しい。ちなみにわたしは星座当てクイズを見事に外した。あ、あと、天秤座の主人公と、恋の敵役の女性(あえてここで星座は言わない)の種類のちがう「本音」がとてもよかったんだよなー。それぞれのサインに、それぞれの合理性と信念があることを、会話の中で肯定してくれている。

そういえばイタリアの国民性なのか、獅子座と射手座(それと天秤座もか)に甘くない?!とは思った。太陽、木星、金星。華やかで前向きなオーラがあるサイン。一方、牡牛座は後程主要キャラクターによって補完されるからいいものの、牡羊座の扱いは笑っちゃうくらいひどい。ターザンとかアウストラロピテクスとか。主人公の元カレが水瓶座なのでイヤな予感がしていたんだけど、まあ、微に入り細を穿つような水瓶座描写に心が折れそうになるよね。そもそもなんで主人公はあいつと付き合った?!「占いラボ」の動画で、天秤座がだめんずに引っ掛かりやすい星座の上位にランクインしていたことを思い出した。与えたら返ってくるだろうというフェアネスは、少なくとも感情労働の分野に関して、(一部の)水瓶座には通用しないと思われる……

人に対する目配りの細やかさ、「相手が助かるまで付き合う」という奉仕精神、そして間違いのない審美眼とトータルコーディネート力。天秤座、すごいぞ。Netflixが見られる方、リラックスして占星術のエッセンスを楽しみたい方、さらには『プラダを着た悪魔』などの仕事ドラマが好きな方にも、ぜひおすすめします。

四角関係

わたしの親しい友人は、蠍座と牡牛座だ。これまでなんにも考えていなかったんだけど、ホロスコープを読み始めると「ふたりともスクエアじゃん!」と。占いではよく風のサインと相性がいい、と言われるけど、意外と同じサインの友人っていないんだよね。天秤座の妹と仲が良いくらいだ。

友達が少ないくせに、ダイエットにハマって会食を遠ざけたり、なかなか自分から旅行に誘わなかったり、こんなにずぼらでチャランポランのわたしに付き合ってくれる二人には感謝しかない。ちなみにこの二人はそれぞれ地元の幼なじみと職場の同僚なので、三人で一堂に会する機会はないし、わたしがお互いを紹介することもないだろうな、と思う。以前、双子座の友人が「友達同士につながってほしいから、紹介する。わたしが会いたいときに気を遣わずにみんなで会えたほうがうれしい」と言っていて、「ほへー、そういう価値観もあるんだなあ」と感心した。

それで、蠍座の友人の話。他の惑星がどういうアスペクトを取っているか知らないけれど、一見それほど意志の強い感じではない。どちらかというと、おっとりしていて女の子らしいタイプ。小柄でかわいらしい。でも話してみるとすごく肝が座っていて独特のものの見方があり、わたしの知らない情報をたくさん持っていておもしろい。お客さんから、「(彼女に)褒められるとうれしい。嘘をつかないから」と言われたことがあると聞いて、さもありなんと思った。

考えたことをそのまま口に出す、というのとは少し違う。ひどくつらいことを他人に打ち明けずに乗り越えてしまうことがある。黙っているときは、本当に一言も漏らさない。……わたしの察しが悪いのかもしれないけれど。彼女には言葉を人から借りてきたような印象がない。気取ったところや、打ち解けにくいところもない。他人に重さを感じさせないまま、「この人は信頼できるなあ」というしっかりとした実感を与えることって、なかなかできないんじゃない?彼女がちゃんと評価されている弊社って、世の中って、そう悪いものじゃないな。そんなことすら感じさせてくれる。

そんな彼女の姉は魚座で、数年前にホロスコープにハマっていたらしい。そして姉の特技は、彼女から友人の特徴を聞いただけで太陽星座を当ててしまうことだと言う。……いや、それはむしろ彼女の観察眼がそれだけ的確で、メッセンジャーとしての才能が無茶苦茶あるってことなんじゃないの。そら恐ろしい。わたしの星座も突き止められていたらしい。彼女に性格を完全に見抜かれているじゃないか!

わたしは彼女と会うと「ああまた調子に乗って薄っぺらいことを長々としゃべってしまった……」と後悔することもしばしばあるんだけど、わたしが自分を大きく見せようとして吐く嘘も、その後罪悪感で凹んでいる姿までもを、把握されている気がしてならない。彼女は嘘をつかないだけじゃなく、他人の嘘もお見通しなのだろう。なんだかんだ、それでも会い続けてくれるのだからありがたい。いつか見限られてしまうのだろうか。そういうときも彼女は黙って去るのだろうか。言葉と行動で、誠実さを示し続けなくては。そう、固く誓うわたしであった。

フランケンシュタインの時代

リズ・グリーンは『占星学』において、エレメントの説明の章を、風→水→地→火という順番で語っていく。ちょっと面食らうのではなかろうか。占い本やインターネット記事においても、火→地→風→水とか、火→地→水→風とか、筆頭に火のサインが来る場合が多い。もちろん、牡羊座が一番目のサインだからだ。授業中、予想していなかった順番で指名された生徒のように、わたしは戸惑う。そして、その戸惑いにふさわしく、「先生」の指摘は辛辣で、風の星座にとっては突かれたくなかった(もしくは突かれることを予期していなかった)弱点を的確に開示してみせる。

"感情の世界をわかろうともせず、他の人々と感情レベルでつながりをもつ能力を開発しなければ、感情という価値については盲目のままで、無意識に多くの残酷さを生むことになる。"

"現在、科学は思考機能を基礎としているが、感情面から見た現実と心の知恵が欠如した知識は不完全なだけでなく非常に危険なものだという事実に気づかないままでいると、その発見の成果を大量破壊に使ってしまうという恒久的な危険を犯すことになる。"p.116-117

さ、刺さる〜!

風サインの星座に、「相手に論理的に言い返してしまって怒らせてしまうことはありませんか」とか「情緒にとらわれないため、一見冷たい人と思われます」とかの、やさしげなアドバイス(本来は皮肉も含まれているかもしれないが、けして気づかれない)では、彼・彼女らは「そうそう、みんなが感情的になっている中で空気を読めないんだよね。よく変わってると言われるよ」などとという、自己愛に満ちた反駁を導き出すだけだ。「感情」によって正当性が揺るがされることはないと深く信じている。これは、現代社会の振る舞い方と同じだ。今現在、「風の時代」がもてはやされているが、近代以降の社会はまさに「風」が支配してきたのだ。

人間は、客観性、論理一貫性、そして効率性を是とし、科学技術や経済を発展させてきた。「情緒」は一段劣ったものと見られる一方で、「接待」「アテンド」「ロジ」というコミュニケーションに関する形骸化したルールは残った。社会において、「感情」は条件付きで認められた。けして「感情」自体がこの世から消失したわけではないにも関わらず、だ。

だからこそ、リズ・グリーンは、まず風のエレメントを俎上に乗せたのだ。現代社会を深く支配することとなってしまった価値観を、相対化するため。それがもたらした、あるいはこれからもたらすであろう災難をあらかじめ避けるため。ホロスコープでは、ヤングの提唱した「シャドウ」の考え方に重きを置く。対称的なエレメントの要素は、わたしたちがもっとも直視できず、無意識化しているが、わたしたちにもたらすインパクトは自我への信念を揺るがされるほど甚大で、しかも「外部からやってきたもの」のように捉えられる。「情緒」を認められない限り、わたしたちは他者に投影してそれを引き寄せることになる。

感情労働を他者に押しつける、ということもそうだし(わたしたちは概ね機嫌を取ってもらっているが、それに気づかないことが多い)、感情面の拗れを原因としたトラブルを自ら招きやすくなる。しかし、当人は被害者ではなく、関係性をつぶさに見ていくと、むしろ加害者であったことも稀ではない。「シャドウ」は突如として嵐を巻き起こすもののように思われるが、ある意味では折り目正しく、自動的に出現する。わたし自身の中にそれを定期的に解消しなくてはならない仕組みがあるからだ。

フランケンシュタイン博士は、「怪物」をつくった科学者だ。彼は裕福で堅実な両親から愛され、自然に親しむ心優しい恋人と、騎士道に燃える友人とに恵まれた。だが、フランケンシュタインは、その優れた知性を自然科学の探究に生かす一方で、文学や倫理などには関心を示さなかったという。彼は「怪物」を作り出してしまったが、更に悪いことに、それを受け入れることができずに逃げ出し、やがてそれによって大切な家族と恋人、そして自分自身の居場所すらも奪われることになった。

「風の時代」の寓話だ、とわたしは思う。

砂の惑星

ホロスコープでは、よく矛盾した表現があらわれる。冥王星が月にハードアスペクトを取るとき、月の日常的な生命力・気力の蓄積に、穴を空けてしまう可能性があるという。また、火星が月にハードアスペクトを形作ると、火星が活力や気力を保存する心の器を突き破ってしまうおそれがあるとか。

いや、どっち!

底抜けなのか、決壊なのか、もうわたしの月はやぶれかぶれである。まあ、ほどほどに抜かれ、ほどほどに注がれて、なんとなく一定の水位を保っているのかもしれない。

ものの本によると、シングルトンやノーアスペクトのほうが天体の特徴がより際立つケースもあるという。とすれば、すべての天体(小惑星除く)がなんらかのアスペクトを取っているわたしは、結果的にほどよく毒を抜かれ、際立った部分もなければ波風が立つこともなく、およそ小市民的な人生を送ることに照準が定まったのかもしれない。

「astro -seek」での支配エレメントの計算では、地55%、風29%、火11%、水3%。火は、同じく1ヶ所しかないものの、アセンダント牡羊座で点数を稼ぎ、冥王星蠍座のみの水サインのほうが劣勢だ。自分で言うのもなんだが、「うるおってる感」とか「みずみずしさ」とかに欠けているのはこのせいだろうか。水のエレメントで言われがちな「官能性」は言い換えると「感応性」だろう。感じて、反応していく。

ところで、わたしの蠍座16度のサビアンシンボルは、"A girl's face breaking into a smile."、「いきなり笑い出す少女の顔」「突然笑顔になる少女」などの訳し方があるが、相好を崩す、破顔一笑といったイメージだろうか。正直、わたしは蠍座冥王星に、ファムファタル的な魔性の女という妄想を重ねてうっとりしていたので、突然あらわれた「少女」というモチーフに少し驚いた。

一つ前に戻り、蠍座15度、つまりサインのピークを表すシンボルは「5つの砂山のまわりで遊ぶ子どもたち」。支配欲、支配力がもっとも生き生きと表現されるのは、それが本人にとっても非意図的で、周囲からも自然に受け入れられるとき。おもしろいなあ。彼らの砂場を突如として訪れた少女は、それを「笑う」。smileだから、声をあげずにニッコリと笑っただろうし、いきなり遊びを邪魔されたことに彼らは戸惑ったかもしれない。

蠍座の「支配力」は原始的な遊びの中で構築され、また自らそれを突き崩す。 水のエレメントの遊びといえば、ミミクリ(真似・模倣を伴う遊び)だろうか。山を、模倣する。他のこどもの山の作り方を、真似する。

蠍座サインでの関係性は、あくまで「わたしとあなた」であり、山羊座のような組織化以前の「個人」が立ち昇ってくる。だから、感情は最大のコミュニケーションツールであり、武器であり、脅威だ。感情は支配されることや制度化されることを望んでいない。

「私には常に一対一で向き合う対象が必要なの。でないと自分てものがわかんなくなってくるのよ」『恋愛的瞬間』

さて、わたしのホロスコープで、月のシンボルは「トンネルに入る列車」である。水瓶座のエネルギーがほぼ最高潮に達し、圧倒的なスピード感・効率性をもって目的に向かって駆動していく。ただ、侵入する先はトンネルだ。やがて水瓶座におとずれるのがただ一人、孤独で、荒野をゆく道のりであることが示唆されている。そんな月を、まるで蠍座は笑うように突き飛ばしてくる。スクエアのアスペクトは、交通事故のように思いがけぬ方向からアタックされることを意味しているらしい。あるいは送電線を勝手に切ってしまう。

エネルギー源が絶たれたときに、わたしの月は茫然と、自分自身を見つめ直すことになるのかもしれない。それからやっと、他者の瞳と出逢うことができるだろう。

所有するために生まれてきたの

(追記)一度投稿したものの、わたしの火星=2室にあるという誤解を前提として、妄想を繰り広げております。本当は、以前の記事にもあるように、1室です。ああ、恥ずかしい。でも書いていることは嘘ではないので、「よく読み返してから投稿しろよ」という自戒も込めて、このままにしておきます。(追記終わり)

アセンダントのルーラーが位置するハウスは「あなたがなにを目的として生まれてきたのか」をあらわすらしい。わたしの場合、2室。「所有するために生まれてきたの」だ。『西洋占星術』(松村潔)ではもっと露骨に、「2ハウスは自己保存衝動であり、自分を物質的に豊かにすることで守り、人に分け与えることはありません。この人は(中略)現世でたくさんお金をもうけて豊かに生きることを目的に生まれてきたわけです」なんて書かれている。身も蓋もなくて笑ってしまう。

わたしも水瓶座の端くれなんだから、もっと精神性のこう、高みを目指すような……。いやわかってる。お金はもうけていない(むしろ出ていくばかりだ)にせよ、所有するのが大好き、所有マニアだということは否定できない。それがモノでも、情報でも。持って帰るという行為が好きだ。わたしの部屋に、わたしがまだ読んでいない本があること自体がにやにやするほどうれしい。本には本固有の領土がある。わたしの王国に、ぽっと火が点るようにして辺境が生まれる。

いくらかAmazon Kindleで購入した本もあるが、やはり紙のほうがいい。それは、別にわたしが装丁や紙質にこだわるタイプだからではなく(稀覯本や革綴じに関心があるほうではない。このへんは身体感覚、美的共感の鈍さがあらわれている)、文章の「アドレス」を覚えやすいからだ。あのフレーズは、分量にしてあの本の真ん中らへん、左上あたりに書かれていたような気がする、であるとか。両手で持っている紙の厚さ、目の位置、そういうものを手がかりにして探すことが多いので、電子書籍だと情報量が少なすぎるのだ。

記憶力はけしてよいほうではない。だけど、お気に入りの文章は飽きずに何度も反芻するほうだ。貪食のよろこび。「繰り返すとよろこぶ細胞」(青木陵子)というドローイング作品を見たとき、作品よりもむしろこのタイトルのほうが印象に残った。繰り返しは、うれしい。

単純な反復は、どこか不吉なイメージもはらんでいる。「空洞です」で通底音のように繰り返されるギターフレーズ。落ち続ける点滴。"たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔"。「オスティナート」という言葉を見つけた。執拗に繰り返されるリズムパターン、和声、音程。繰り返しは、繰り返しの中に生命を見つける。わたしはわたしの中に、思いのままにならない領域があることを知る。反復は、いつの間にかわたし自身を這い出て、不気味に振る舞うようになる。清潔強迫、ある種の摂食障害。わたしたちは不条理で困難な社会に対応するために、一定の規則を持ち込み、了解可能となるように制度化する。けれども、その新たな制度がまるで産み落とした赤子のように勝手に動き出し、わたしを乗り越え、わたしに命令するようになる。

わたしの本たちは、わたしが所有しているのだろうか。本を読むと、本が欲しくなる。週末に図書館に行く、パターン。本屋を見つけると入ってしまい、一冊くらいは買ってしまう、パターン。部屋は本を胚胎する。本は部屋で繁殖している。ときどき、本当にいつ買ったか覚えていない本が見つかることがある。それはまるで地球に落っこちてきたエイリアンみたいで、やっぱりわたしには、かわいい。