わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

フランケンシュタインの時代

リズ・グリーンは『占星学』において、エレメントの説明の章を、風→水→地→火という順番で語っていく。ちょっと面食らうのではなかろうか。占い本やインターネット記事においても、火→地→風→水とか、火→地→水→風とか、筆頭に火のサインが来る場合が多い。もちろん、牡羊座が一番目のサインだからだ。授業中、予想していなかった順番で指名された生徒のように、わたしは戸惑う。そして、その戸惑いにふさわしく、「先生」の指摘は辛辣で、風の星座にとっては突かれたくなかった(もしくは突かれることを予期していなかった)弱点を的確に開示してみせる。

"感情の世界をわかろうともせず、他の人々と感情レベルでつながりをもつ能力を開発しなければ、感情という価値については盲目のままで、無意識に多くの残酷さを生むことになる。"

"現在、科学は思考機能を基礎としているが、感情面から見た現実と心の知恵が欠如した知識は不完全なだけでなく非常に危険なものだという事実に気づかないままでいると、その発見の成果を大量破壊に使ってしまうという恒久的な危険を犯すことになる。"p.116-117

さ、刺さる〜!

風サインの星座に、「相手に論理的に言い返してしまって怒らせてしまうことはありませんか」とか「情緒にとらわれないため、一見冷たい人と思われます」とかの、やさしげなアドバイス(本来は皮肉も含まれているかもしれないが、けして気づかれない)では、彼・彼女らは「そうそう、みんなが感情的になっている中で空気を読めないんだよね。よく変わってると言われるよ」などとという、自己愛に満ちた反駁を導き出すだけだ。「感情」によって正当性が揺るがされることはないと深く信じている。これは、現代社会の振る舞い方と同じだ。今現在、「風の時代」がもてはやされているが、近代以降の社会はまさに「風」が支配してきたのだ。

人間は、客観性、論理一貫性、そして効率性を是とし、科学技術や経済を発展させてきた。「情緒」は一段劣ったものと見られる一方で、「接待」「アテンド」「ロジ」というコミュニケーションに関する形骸化したルールは残った。社会において、「感情」は条件付きで認められた。けして「感情」自体がこの世から消失したわけではないにも関わらず、だ。

だからこそ、リズ・グリーンは、まず風のエレメントを俎上に乗せたのだ。現代社会を深く支配することとなってしまった価値観を、相対化するため。それがもたらした、あるいはこれからもたらすであろう災難をあらかじめ避けるため。ホロスコープでは、ヤングの提唱した「シャドウ」の考え方に重きを置く。対称的なエレメントの要素は、わたしたちがもっとも直視できず、無意識化しているが、わたしたちにもたらすインパクトは自我への信念を揺るがされるほど甚大で、しかも「外部からやってきたもの」のように捉えられる。「情緒」を認められない限り、わたしたちは他者に投影してそれを引き寄せることになる。

感情労働を他者に押しつける、ということもそうだし(わたしたちは概ね機嫌を取ってもらっているが、それに気づかないことが多い)、感情面の拗れを原因としたトラブルを自ら招きやすくなる。しかし、当人は被害者ではなく、関係性をつぶさに見ていくと、むしろ加害者であったことも稀ではない。「シャドウ」は突如として嵐を巻き起こすもののように思われるが、ある意味では折り目正しく、自動的に出現する。わたし自身の中にそれを定期的に解消しなくてはならない仕組みがあるからだ。

フランケンシュタイン博士は、「怪物」をつくった科学者だ。彼は裕福で堅実な両親から愛され、自然に親しむ心優しい恋人と、騎士道に燃える友人とに恵まれた。だが、フランケンシュタインは、その優れた知性を自然科学の探究に生かす一方で、文学や倫理などには関心を示さなかったという。彼は「怪物」を作り出してしまったが、更に悪いことに、それを受け入れることができずに逃げ出し、やがてそれによって大切な家族と恋人、そして自分自身の居場所すらも奪われることになった。

「風の時代」の寓話だ、とわたしは思う。