わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

ふれてみたい

ふれ合うことが苦手で、でも好きだ。「人来るよ」とかで(親切で)背中を押したり、腕を引き寄せたりする場面でも、反射的にゾワッとなって払い退けたくなってしまう。でも冬の日に「手が冷たいねー」なんて話しながらお互いの手を握る、みたいなのは平気。一方、どれだけ親しい相手でもずっとくっついていたいとは思わない。電車の中では(できれば)距離を取りたいけれど、神経質に気にするほどでもない。自分の「身幅」感覚が鈍いのか、横をすり抜けようとしてぶつかったり、説明の最中に咄嗟に出た手振りが相手に当たったりすることがある。

トータルでは、ふれ合うことはそれほど得意ではないのかもしれない。ふれる・ふれられるは、アクシデントの形であらわれる。過敏なときもあれば、逆に鈍感すぎるときもある。モノの触感はどうか。わたしは特に素材にこだわるほうではない。でも、子どもの頃に親戚の家の土壁を爪でぽろぽろ剥がしておもしろがっていたなあとか、「山川出版社の歴史の用語集」のオレンジ色した表紙の手触りとか、不思議と消えない記憶もある。触覚はミステリーだ。体内の奥深くで、フックに引っ掛けられた状態で宙吊りにされている。

わたしは1室・牡牛座に火星がある。火星牡牛座は、とにかくふれていたいサインだそう。わたし自身は上記の通り、「ふれ合う」ことへの微妙な馴染めなさ・タイミングのズレがあり、「四六時中ふれていたい」に関しては完全にノーだと思う。水瓶座の太陽・月・金星と、牡牛座の火星・木星の葛藤が巻き起こっているのだろうか。わたしが「ふれ合う」で想像するのは、赤ちゃんを抱きしめるお母さんの像だ。包むことで包まれているような、見えないミルクの膜が世界と彼女らを隔てているような、幸福のイメージ。ふれること・ふれられることに、本当に心も身体も明け渡して安心をしてみたい、また安心を感じてもらいたい。そういう願望が奥底でふつふつと滲み出しているのかもしれない。

一方で、自分自身の「やわらかさ」への忌避感がある。ダイエットの名残りだ。だいぶリバウンドしてしまったので、肩の丸みとか、突き出した下腹とか、耐えられない部分はたくさんある。もう骨にふれることができない。まだ薄かった肉ごしに撫でさすった骨は、冷たく、硬く、わたしの正しさと強さを静かに肯定してくれていた。たぶんいまのわたしは、どれだけ他のことを努力したとしても、あのころの自己肯定感と自信を取り戻すことはできない。わたしは無意味で、だからこそ他に侵されない価値を確保してくれるルールから、徐々に脱落していった。それが過食などを伴う劇的なものでなかったことは、社会生活上は都合が良かったかもしれないが、わたしのわたしに対する失望感も呼び起こした。墜ちるときもだらしのない奴だ。

抱き合うには、お互いに「やわらかい」ほうがいいだろう。すっかりと、隅々までくっつくことができるから。そしていっさいの生命をあますところなく感じとることができるから。この「やわらかさ」はけして、肉体的なことを指しているのではない。わたしの心は、昔も今も硬い。占星術に興味を持っているが、リラクゼーションやヒーリングは苦手だ。リラックスをするにもある種の才能、もしくは訓練が必要なのではないか。美容院のマッサージや、温泉に浸かることは好きだ。素直に気持ちいい。だけど形のないものは不安だ。わたしのことをゆるしてくれる存在など求めていない、とも思う。常に脳みそに冷たい薬液を流し込んで、神経系に電気を張り巡らせて、覚醒させていてほしい。わたしが規律正しい人間だからではない、わたしが節操のない、不埒な人間だからだ。

ふれ合うこと。境界を曖昧なまま門扉を解放すること。与えられるのと同量を与えること。コントロールはできず、浸透圧に沿って自動的に感情は溢れ出していき、流れ込んでくる。わたしはやっぱりそれが、こわい。