わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

布の告白

最近、"表面的"ということが気になっている。以前から、「本心をみぬく」「本音をあばく」みたいな言葉に懐疑的だった。彼・彼女らが表している、あるいは表したい表情を読み取らずに、相手がなにか重大なものを隠しているに違いないと決めつけ、白日のもとにさらす、そんなコミュニケーションはむしろ貧しいのではないかと。表面を誠実に受け取り、少しだけ意味をずらして送り返す。まるで映画『東京物語』で定型的な挨拶が繰り返され、応答の中の差異が、襞やたわみとなって物語を豊かさに導くように。

わたしは、個性よりも無個性を自覚している。オポジションというのはおもしろくて、わたしはスクエアの牡牛座・蠍座には憧れを抱くのに、獅子座の解説を読んでいても宇宙人について語っているようにしか思われない。それほど、遠い。わたしの意識は拡散的で、とりとめがなく、中心を持たない。獅子座のそれは求心的で、自己を幸福にするという強い志向性がある(というイメージを負っている)。わたしにとってのファッションは皮膚の切断だが、獅子座はそれをまさに自らの内面から湧き起こるイメージとして操る。彼・彼女らの衣服はとても肉体的だ。色彩が、生地が、縫製が、踊っている。

わたしは隠蔽している、というより、表面以外なにも持たないことを知っている。剽窃、詐取、他者から盗み取りスライドした表層の積み重なり。なにかを創造する者でありたい、という漠然とした欲望は未だにわたしを駆り立てるが、わたしにその才能がないことも自覚している。わたしの口を突くのは誰かの言葉だ。それはわたしの魂も、わたしの心臓も貫くことはなく、皮膚の上を伝い歩きする喃語だ。

"宇宙"は水瓶座のテーマであるらしい。もしかするとそれは、生命安全装置付き宇宙服の中から覗き見る宇宙であるかもしれない。

わたしは、わたしを永久の建築物とみなすことはできない。わたしは仮設だ、と思いたい。絶えず解体され、移動し、組み立てられる、その変容こそがわたしだ。偶然そこにあった材料でつなぎ合わされた襤褸。場当たり的で取り止めがなく、常に横すべりして不埒なコラージュ。引き攣れた布のようにわたしは笑う。いつも後じさりしながら他者と相対している。けれども、コミュニケーションがコミュニケーションとして意識されるのはむしろ、このようなときではないか。言葉がずれを孕みながら逃走し、相手の関心を繋ぎ止めたい身振り手振りが空をかき、やがてだらりと両手が垂れるような無力さにおいて、かえってありありと他者が他者であること、そして他者がわたしを存在させていることを知る。

わたしがあなたを必要としている、というのは、そういう次元の話なのだ。

やぎだんご、そしてまじめに遊ぶこと

やぎだんご、という言葉を知った。とてもかわいい。わたしは山羊座土星天王星海王星が集合している、やぎだんご世代。やぎだんごの真ん中にMCがあり、ついでに、ちょっと離れて水星も山羊座サインに入っている。わたしの山羊座サインは9〜10ハウスにかけて位置しているので、山羊ファームのやぎだんごである。好きにならざるをえない。

わたしの社会性を担保してくれているのは山羊座なんじゃないか、と思うくらい、わたしは山羊座に頭があがらない。大きなお金ではないけれど、一冊の本や友達へのプレゼントを買うことに困らないくらいの収入が得られているのは、仕事のおかげ。とはいえ、仕事大好き人間かと問われると、はっきりと左右に首を振る。「AIに仕事を奪われることの何が問題なんだ!」と真剣に憤慨しているタイプ(現在は教育機会の偏在や寡占化による富の集中などの課題があるとはいえ)。完全雇用率がなにかの指標をあらわすこと自体、将来的にはなくなってほしい。

それでも、わたしは粛々と会社に通う。言行不一致はなはだしい。だけどわたしは小心者で、起業や独立などの選択肢を選ぶことができない。今、裕福な暮らしではないけれど、食事や旅行、読書に対する(わたしのサイズ感での)放埒な欲求を満たすことができている。ありがたいことだ。太陽・月・金星の水瓶座軍団(11ハウス)が「好きなことだけしていたいよーお金にならなくてもいいからー」とのたまうのを、やぎだんごが諫め、会社に向けて尻を蹴り飛ばしてくれる。一方で、「好きなことをやってもいいが、高みをめざせ!」と、たしなめているのか煽っているのか分からないことも要求される。

水瓶座がぼわぼわ、えへらえへらと考えていることに、マジレスしてくるのが山羊座だ。「おまえは脳内で完璧に結論が出たと思っているが、端的に自分の言葉で説明できるのか?いつもの"なんとなくわかった感じ"でごまかしているんじゃないか?」と詰められる。夜郎自大ナルシシズムの権化であるところのわたしに、容赦なく「客観」の定規を当てる。もっと、やれ。もっとやれば、もっと楽しくなるぞ。

そう、わたしの山羊座、楽しむことにやる気満々なのだ。土星山羊座10度で「手から餌をもらうアホウドリ」、水星の山羊座26度に至っては「水の妖精」。たぶんわたしのホロスコープの中で、トップクラスにうれしそうなサビアンを持つのが山羊座水瓶座は「トンネルに入る列車」(月・14度)とかなのに……。こういうイメージを眺めていると、山羊座、そして土星先生の懐の深さを感じる。

"まじめかふまじめか、仕事か遊びか、労働か余暇か、生産か消費かという、紋切り型の二者択一のなかで、遊びからしだいに〈まじめさ〉が欠落していった。「あれは遊びだったの」という表現にみられるように、遊びは「ふざけ」「ふまじめ」「無責任」の代名詞のようになってしまった。(中略)遊びはしかし、気を抜いたものなのか。「手応え」ということばがある。これは仕事にだけでなく、遊びにもあるはずだ。手応えのない、やってもやらなくてもいいような遊びは、やっていて退屈する。遊びも真剣さを求めているのである。"ー『だれのための仕事』(鷲田清一

遊びも真剣さを求めている、わたしはこの言葉が好きだ。「山羊座は高みを目指す」ことを修行僧に例えるけれど、実は高いところが好きなだけの山羊もいるんじゃないか(もちろん修行好きの修行僧もいるだろう)。野生の山羊は岩塩を摂取するために命懸けで崖を上るらしいが、家畜となった山羊も小山をつくってやると喜んで乗る。どうだろう、だんだんかわいく見えてきたんじゃないだろうか、やぎだんご。

ちなみに先程の本には、遊びと同じく、仕事も自分の限界と格闘すると楽しいと書かれているのだが、そちらの道はまだ入り口にも辿り着けていないようだ……。

コミュニケーション・ブレイクダンス

他人と話すのが苦手なので、頭の中でよくしゃべっている。

友人は多くはないが、恵まれているほうだと思う。飲んだり、ライブに行ったり、旅行をしたり。できる限り相手の意図に添いたいと感じる(いつもうまく行くわけではないけれども)。相手の不機嫌や退屈が気になる。わたしの疲れが、相手に伝播していなければいいなと思う。理想は、わたしがいようといなかろうと楽しんでくれることだ。わたしがいることを忘れるくらい、相手が欲するところを心ゆくまで満喫できればいい。わたしといると、好きなことを話せるし、好きなところに行けるなあ、と思ってほしい。

相手が会話でなにを望んでいるか、なにを結論にしたいのかを考える。可能であればその軌道を変えず、寄り添うようにして相槌をうちたい。ときどき「え?」みたいな反応をされると焦る。わたしは慌ててごまかす。わたしは他人に対して差し障りなく生きたい。つまずく小石のようなものでもありたくない。

わたしもしばしば話をしたくなる。でも、興味のない話題に惹きつけさせるほどの話術はないから、気後れする。それでもしゃべらずにおれないとき、ツイッターで吐き出す。ツイッターしゃべってしゃべって、満足する。書いていると、実際に話すときよりもずっと考えがまとまる。だけど、ツイッターでもやがて人間関係が生まれる。フォロワーのことを想像すると、「あまり関連性のないトピックは呟けないな」と感じることが増える。また、「急にプライベートなことを書きつけるのは恥ずかしいな」という計算もはたらく。

わたしはペルソナをかぶることでようやく他者に向かって発話することができるようになる。それ自体はよくあることだろうと思う。問題は、ペルソナに可塑性、多様性がないことだ。わたしは何枚ものペルソナを拵えようとするが、おおむねその取組はうまく行かず、放置されたアカウントばかりが増える。当然だ、Aについて語るのもBについて語るのもわたし自身だからだ。そしてわたしの発想法上、AとBとを関連づけたがり、それらを通じてわたしを説明することを好む。けれど、わたしの手によるペルソナには、そういった拡張した語りを許すほどの「ゆとり」がない。わたしは、わたしのせいで勝手にさびしくなっていく。

相手を模倣することによって、コミュニケーションの「滑らかさ」「軽く享受できる楽しさ」を実現させようとするのだが、しばしば失敗する。わたしが相手の本当の気持ちを汲めていないからだ。いらいらさせている、と感じると動揺するし、驚かせてしまうと申し訳なくなる。最終的には「早く切り上げたい」が勝つ。わたしはそそくさと退散する。わたしは、傍観しているだけでいい。俯瞰、とは違う。同じ地平で、しかも関わらず、他者の振る舞いを覗けるくらいの距離感でにこやかに押し黙っていたい。話し相手はわたし自身で十分じゃないか。読みきれないほどの書物が世の中にはある。他人は文章を通してわたしにいくらでも語りかけてくれる。

だけど、まさにその本自体が「おまえはそれでいいのか」と厳しい問いを投げかける。哲学は、臨床の学問だ。対話の地平に拠って立つ。

わたしはおそらく、「複数の他者から成る世界」と、「今そこにあるかけがえのない他者」を、わざと混同させている。『星の王子様』に、一匹のキツネが出てくる。キツネは王子に言う、「ぼくはパンを食べないから、小麦はぼくにとって意味のないものだ。小麦畑を見ても何も思わない。けれども、きみは金髪だから、きみがぼくを"飼い馴らして"くれたらきっとすばらしいことになる。金色に輝く小麦畑を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑を渡る風の音さえ、好きになれるんだ」と。

飼い馴らす、というのは、王子様→キツネだけでなく、キツネ→王子様の関係性でもある。お互いにお互いを"飼い馴らす"ことによって、二人のあいだで、小麦畑は永遠に以前の小麦畑ではなくなる。そこには不可逆的な変化がもたらされている。だからこそ、"飼い馴らし"た相手には責任を持たなくてはいけない。責任を持つことが「できる」と言ってもいい。

人間は、世の中に大勢あるだろう。けれども、キツネが言うように、王子様はキツネにとってたった一人の人間なのだ。わたしは少なくとも友人について、社会に対して振る舞うようにするのではなく、一個の個性ある人間を認め、わたしという存在で関わっていかなくてはいけない。わたしが他者にとって好ましくない影響をもたらすかもしれないことを受け入れ、それに責任を持つことができることを喜ばなくてはならない。わたしは無傷な他人でい続けることはできない。

そのとき、初めてわたしは、わたしと他人のさびしさに目が開かれるのだろう。

冥王星よ聞こえるか?

昨日はライブだった。GWにフェスには行ったけど、単発のライブは久しぶり。この時勢なので押し合いへし合い、はないけれども、天井いっぱいまで観客の熱意が充満しているような、すばらしい公演だった。あるヒップホップユニットのステージを初めて観たんだけど、ホロスコープとの関係でとても興味深かった。

"冥王星よ聞こえるか?

地球、日本から話しかけてる

そこに辿り着いた俺の言葉は満足そうな顔をしていたかい?

腰掛けて、荷物を下ろしていたかい?

それとも横目でチラっと冥王星を見ながら

またあの呪われた前向きな呪文を唱え、遠ざかっていたかい?"

ill-Beatnik,THA BLUE HERB

「あの呪われた前向きな呪文」とは、曲中で何度も繰り返される「先は長い、深い、言葉にならないくらい」というフレーズのことを指す。呼びかける相手が冥王星、というところにキュンとなった。地球から48億キロメートルも離れた星。12星座をめぐるにも248年かかる。距離が非常に遠いため、肉眼で見つけることはできない。言葉が一人ひとりの心の中に届くことと、冥王星に到達することとが、同じ地平で語られていることが美しい。

"一つぶの砂に 一つの世界を見

一輪の野の花に 一つの天国を見 

てのひらに無限を乗せ

一時(ひととき)のうちに永遠を感じる"

無垢の予兆、ウィリアム・ブレイク

100年余の人生、そして45分のステージを、冥王星やそして太陽系すら超えた遥か彼方と比較し得ること。これは言葉の上のみで可能なことだ。肉体の滅びの後に現れる理解者を待てない、と正直な不安を吐露しながら、永遠の側に、ガラス瓶に詰めた手紙を押しやり続ける。これほど誠実な営みがあるだろうか。

そして、冥王星。ここで太陽や月や他の天体ではなく、冥王星を選んだのは、やはり冥府の王というイメージを引いているんだろう。破壊と再生。わたしたち人間が見ることも、もしかしたら自覚することも叶わないが、占星術ではまさに「王」にふさわしい特別な位置を与えられている。

また、冥王星は、48億キロメートル先の太陽系外縁にある、という理解にとどまらない。冥王星の碇は、心の奥深くにまで降ろされている。自我の仮面の下に潜む暗い衝動。大脳辺縁系は、わたしたちの心の中にある異邦、辺境、無政府地帯だ。わたしたちはこれを古代から継承し、また次世代へと脈々と引き継いでいく。もはや言葉は言葉ではなく、「呪文」のような意味不明な音の羅列となり果て、けれどもだれかが唱えることによって息を吹き返し、命は繰り返し蘇り続けるのだろう。

霊感としばしば結びつけられる海王星ではなく、あえて冥王星を選んだのは、ヒップホップの権力への反抗性という性格から「パワー」を司るこの星を意識せざるを得なかったのか。冥王星、という重々しい言葉も飲み下して自分の言葉としてしまう、逞しさと貪欲さを感じられたアクトだった。とてもよかった。

何を観に行ったかと言われるとenvyだったわけですが。エヘッ!とはいえ、こういう未知の出逢いがあるから、ライブはおもしろいよね。

卑屈さという戦略

自尊心やくざみたいな性質がある。「自尊心やくざ」とはつまり、手持ちの自尊心が少なく、他人からゆすりたかりの手口でそれを脅し取ろうとする輩のことである。それがわたしだ。ひとたび自信が折られるとだいぶ面倒くさいことになるのを自覚しているため、普段からできるだけ自ら選択することを避けるようにしている。

自分で選択をしなければ、少なくとも「わたしがそれを決断した」という責任を負わなくて済むことになる。水瓶座の適職にフリーランスが挙げられることがあるが、わたしに関しては絶対に!絶対に!!自営業を目指すべきではない。雇われ仕事の中で文句言い、のほうが楽ちんだし、性に合っている(それが大人の取るべき態度であるかどうかは置いておいて)。間違いなく、わたしは間違う。おそらく他人はわたしほどは間違わないであろう。相対的な次元で、わたしは他者を信頼している。

仕事で転勤先や部署などの希望を問われると途方に暮れる。ひと所に居たくない、以外の積極的な感情などないのだ。キャリア?スキルアップ水瓶座は将来志向などと誰が言った。わたしの人生のサイコロを、代わりに誰かが振ってほしい。流されてたどり着いた先で、わたしは勝手に運命を感じてときめいている。「ああ、この時期にこの土地に来たのは、第二の故郷としなさいということだな!」と、勘違いも甚だしい。浮草のような生き方だが、それなりに楽しんでいる。うまく行かなかったら、その選択をした他人のせいだ。わたしのミスではないので、わたしが自尊心を傷つけられる必要はなく、開き直って逃げ出せばよい。

小惑星も含め、4ハウスになんら天体がないことも影響しているのかもしれない。居場所、帰るべき土地。わたしにはそもそもそれをつくる動機、あるいは能力もなかった。牡羊座ASCでフライング気味に飛び出して、水瓶座が余所見をしながらほっつき歩いていたら、いつの間にか根っこを引きちぎって、ここまで来てしまった。山羊座支配下にあって、反抗的なくせに組織にぬくぬくと安住し、一方で水サインの不足もあってか凝集性に欠けており、「うるせー!わたしはおまえのルールには乗らない!」と飲み会やゴルフを拒否する。だが、他人の目を気にする小心者でもあり、ふとした折りに「こんなことばかりしていて大丈夫だろうか」と不安になるときもある。

わたしの天体は1〜2室、9〜12室に集中している。わたしはほんとうは誰に認められたいのか、わからなくなってしまう。わたしにとっての「社会」に顔がない。一対一の個人的なコミュニケーションの次元を飛び越して、複数の他者と出会うネットワークの中で承認されたいとあがいている。だからこそ、「すべての人の目」が気になる。

「わかっている」と言いたい。誰かが指摘するわたしの欠点も悪癖も何もかも。「わたしもわたしのこういうところがクソだと思ってたよ!」と相手にかぶせるくらいの勢いで言い返して、他者による評価の下に、自己評価を滑り込ませたい。下手(したて)を常に取り続けることによって、「少なくともわたしはあなたよりもわたしがダメなことを知っている」という身振りを固持したい。いったいこれはどういう塹壕戦なのだろう。

他人との距離が縮まると不安になるのは、こうした卑屈な自分を見抜かれる思いがするからだ。わたしはわたしの犯罪の証拠を隠し持っている。人生を、逃げおおせたい。それなりに楽しんでいる、というのは強がりでもあり、本音でもある。スリラー映画のような楽しみ方ではあるけれども。

わたしを機械にする言葉に反応するな

わたしが自動的に反応してしまう言葉は、わたしを機械にしようとする言葉だ。わたしはふらちな想起をやめる。「留保」し「棚上げ」にする。答えの出ない問題の前に立ち尽くす勇気を持つ。鍋が煮えるのを待つ。

わたしは喪に服さない。

わたしは批判することをやめない。死んだとしても、その人間は責任を持つことができる。

死者にも民主主義はある。

以上、自省のために。

水瓶を運ぶ人

水瓶、というからには、なにかが入っていなくてはいけない。「甕」ではなく「瓶」なので、貯蔵用・煮炊き用というよりは、持ち運び用の器なのだろう。形状からして、ひとりで抱えられるほどの重さのものしか入れられない。わたしが遠くへゆくためか、家で待つ誰かのためか、「水」や「酒」を運ぶ。溜め込んでおくと腐ってしまうので、日に何度も、あるいは道すがらで都度補給する必要がある。それがどこで得られるのか、情報がなければ汲みに行くことはできない。また、井戸ならば枯れることもあるだろう。常に水脈を知り、人びとと共有していなくては、命の「水」は瞬く間に尽きてしまう。

「水瓶」が風のサインだということは、このことからもなんとなく了解できる。情報とコミュニケーション。そして「水」を分配し、共同体を生かすためのフェアネス。「水瓶」は己のために、形のない「水」を扱いやすいものに変え、コントロールしようとする。治水、灌漑もまた「風」の役割だ。ある用途に沿って、思い通りの仕事を為すよう、自由に変形させ、輸送し、流れを付け替える。

かく言うわたしは、水のサインが蠍座冥王星(7ハウス)のみだ。しかも算命学や四柱推命の「木性・火性・土性・金性・水性」でも「水性」はゼロ。水のない世界へようこそ。

しかしながら、わたしのドラゴンヘッド魚座サインにある。ホロスコープを読み始めたときは「ふーん」というくらいのものだったが、最近ひしひしとプレッシャーを感じずにおれなくなった。「簡単に言ってくれるじゃないか」と。魚座、水サインの柔軟宮。実はわたし、柔軟宮もゼロだ。わたしのネイタルなホロスコープにないものが魚座ドラゴンヘッドに凝縮されている。これも土星さんの試練なのか?!めちゃくちゃうまくできているな、と感心してしまう瞬間でもある。

当初、「水瓶で魚を飼うのかしら?」と想像していたが、冒頭に述べたように、「瓶」が「甕」ではないことを踏まえると、この連想はあまりふさわしくないだろう。むしろ、魚のために水瓶で水を運ぶ、とするのが正しい。本来は川のもの、海のものであるはずの魚を、人工的な器に移し替えて、生かす。けれども魚は見かけによらず結構しぶとい。環境ががらりと変わってしまっても、水さえ適するように保たれていれば生き延びる。とどまりたいのか、逃げたいのか。その意志は計り知れない。水がとどこおれば瞬く間に死ぬ、それだけが真実だ。わたしは水を汲み続けなくてはいけない。家に、あるいは心に棲まう魚のために。

魚は、何も語らなくとも、海の底の記憶をたたえているだろう。ふしぎと瞑想的な雰囲気を漂わせている人も少なくない。魚座の彼・彼女らは影響を受けやすいと称されるにも関わらず、その目を通して見る世界の光はやわらかいように思われる。水が光を吸収することによって、透過光は青くなる。水は透明ではないのだと言う。「すなわち、水自身が本質的にわずかな青色に着色している」。魚座は潜水することによって真実を知ることになった人びとのことだ。

わたしは、水の世界にあこがれている。いつでも水脈を探しているし、水源を見つけると喜ぶ。こういうことを考えるきっかけをくれたホロスコープも、わたしにとっては「井戸」だ。「魚」の水を新しくするとき、わたしはわたしにとっても水が不可欠であったことを理解する。水を使うことではなく、水を生きること。それがわたしの果たすべき務めなのだろう。