わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

コミュニケーション・ブレイクダンス

他人と話すのが苦手なので、頭の中でよくしゃべっている。

友人は多くはないが、恵まれているほうだと思う。飲んだり、ライブに行ったり、旅行をしたり。できる限り相手の意図に添いたいと感じる(いつもうまく行くわけではないけれども)。相手の不機嫌や退屈が気になる。わたしの疲れが、相手に伝播していなければいいなと思う。理想は、わたしがいようといなかろうと楽しんでくれることだ。わたしがいることを忘れるくらい、相手が欲するところを心ゆくまで満喫できればいい。わたしといると、好きなことを話せるし、好きなところに行けるなあ、と思ってほしい。

相手が会話でなにを望んでいるか、なにを結論にしたいのかを考える。可能であればその軌道を変えず、寄り添うようにして相槌をうちたい。ときどき「え?」みたいな反応をされると焦る。わたしは慌ててごまかす。わたしは他人に対して差し障りなく生きたい。つまずく小石のようなものでもありたくない。

わたしもしばしば話をしたくなる。でも、興味のない話題に惹きつけさせるほどの話術はないから、気後れする。それでもしゃべらずにおれないとき、ツイッターで吐き出す。ツイッターしゃべってしゃべって、満足する。書いていると、実際に話すときよりもずっと考えがまとまる。だけど、ツイッターでもやがて人間関係が生まれる。フォロワーのことを想像すると、「あまり関連性のないトピックは呟けないな」と感じることが増える。また、「急にプライベートなことを書きつけるのは恥ずかしいな」という計算もはたらく。

わたしはペルソナをかぶることでようやく他者に向かって発話することができるようになる。それ自体はよくあることだろうと思う。問題は、ペルソナに可塑性、多様性がないことだ。わたしは何枚ものペルソナを拵えようとするが、おおむねその取組はうまく行かず、放置されたアカウントばかりが増える。当然だ、Aについて語るのもBについて語るのもわたし自身だからだ。そしてわたしの発想法上、AとBとを関連づけたがり、それらを通じてわたしを説明することを好む。けれど、わたしの手によるペルソナには、そういった拡張した語りを許すほどの「ゆとり」がない。わたしは、わたしのせいで勝手にさびしくなっていく。

相手を模倣することによって、コミュニケーションの「滑らかさ」「軽く享受できる楽しさ」を実現させようとするのだが、しばしば失敗する。わたしが相手の本当の気持ちを汲めていないからだ。いらいらさせている、と感じると動揺するし、驚かせてしまうと申し訳なくなる。最終的には「早く切り上げたい」が勝つ。わたしはそそくさと退散する。わたしは、傍観しているだけでいい。俯瞰、とは違う。同じ地平で、しかも関わらず、他者の振る舞いを覗けるくらいの距離感でにこやかに押し黙っていたい。話し相手はわたし自身で十分じゃないか。読みきれないほどの書物が世の中にはある。他人は文章を通してわたしにいくらでも語りかけてくれる。

だけど、まさにその本自体が「おまえはそれでいいのか」と厳しい問いを投げかける。哲学は、臨床の学問だ。対話の地平に拠って立つ。

わたしはおそらく、「複数の他者から成る世界」と、「今そこにあるかけがえのない他者」を、わざと混同させている。『星の王子様』に、一匹のキツネが出てくる。キツネは王子に言う、「ぼくはパンを食べないから、小麦はぼくにとって意味のないものだ。小麦畑を見ても何も思わない。けれども、きみは金髪だから、きみがぼくを"飼い馴らして"くれたらきっとすばらしいことになる。金色に輝く小麦畑を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑を渡る風の音さえ、好きになれるんだ」と。

飼い馴らす、というのは、王子様→キツネだけでなく、キツネ→王子様の関係性でもある。お互いにお互いを"飼い馴らす"ことによって、二人のあいだで、小麦畑は永遠に以前の小麦畑ではなくなる。そこには不可逆的な変化がもたらされている。だからこそ、"飼い馴らし"た相手には責任を持たなくてはいけない。責任を持つことが「できる」と言ってもいい。

人間は、世の中に大勢あるだろう。けれども、キツネが言うように、王子様はキツネにとってたった一人の人間なのだ。わたしは少なくとも友人について、社会に対して振る舞うようにするのではなく、一個の個性ある人間を認め、わたしという存在で関わっていかなくてはいけない。わたしが他者にとって好ましくない影響をもたらすかもしれないことを受け入れ、それに責任を持つことができることを喜ばなくてはならない。わたしは無傷な他人でい続けることはできない。

そのとき、初めてわたしは、わたしと他人のさびしさに目が開かれるのだろう。