わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

砂の惑星

ホロスコープでは、よく矛盾した表現があらわれる。冥王星が月にハードアスペクトを取るとき、月の日常的な生命力・気力の蓄積に、穴を空けてしまう可能性があるという。また、火星が月にハードアスペクトを形作ると、火星が活力や気力を保存する心の器を突き破ってしまうおそれがあるとか。

いや、どっち!

底抜けなのか、決壊なのか、もうわたしの月はやぶれかぶれである。まあ、ほどほどに抜かれ、ほどほどに注がれて、なんとなく一定の水位を保っているのかもしれない。

ものの本によると、シングルトンやノーアスペクトのほうが天体の特徴がより際立つケースもあるという。とすれば、すべての天体(小惑星除く)がなんらかのアスペクトを取っているわたしは、結果的にほどよく毒を抜かれ、際立った部分もなければ波風が立つこともなく、およそ小市民的な人生を送ることに照準が定まったのかもしれない。

「astro -seek」での支配エレメントの計算では、地55%、風29%、火11%、水3%。火は、同じく1ヶ所しかないものの、アセンダント牡羊座で点数を稼ぎ、冥王星蠍座のみの水サインのほうが劣勢だ。自分で言うのもなんだが、「うるおってる感」とか「みずみずしさ」とかに欠けているのはこのせいだろうか。水のエレメントで言われがちな「官能性」は言い換えると「感応性」だろう。感じて、反応していく。

ところで、わたしの蠍座16度のサビアンシンボルは、"A girl's face breaking into a smile."、「いきなり笑い出す少女の顔」「突然笑顔になる少女」などの訳し方があるが、相好を崩す、破顔一笑といったイメージだろうか。正直、わたしは蠍座冥王星に、ファムファタル的な魔性の女という妄想を重ねてうっとりしていたので、突然あらわれた「少女」というモチーフに少し驚いた。

一つ前に戻り、蠍座15度、つまりサインのピークを表すシンボルは「5つの砂山のまわりで遊ぶ子どもたち」。支配欲、支配力がもっとも生き生きと表現されるのは、それが本人にとっても非意図的で、周囲からも自然に受け入れられるとき。おもしろいなあ。彼らの砂場を突如として訪れた少女は、それを「笑う」。smileだから、声をあげずにニッコリと笑っただろうし、いきなり遊びを邪魔されたことに彼らは戸惑ったかもしれない。

蠍座の「支配力」は原始的な遊びの中で構築され、また自らそれを突き崩す。 水のエレメントの遊びといえば、ミミクリ(真似・模倣を伴う遊び)だろうか。山を、模倣する。他のこどもの山の作り方を、真似する。

蠍座サインでの関係性は、あくまで「わたしとあなた」であり、山羊座のような組織化以前の「個人」が立ち昇ってくる。だから、感情は最大のコミュニケーションツールであり、武器であり、脅威だ。感情は支配されることや制度化されることを望んでいない。

「私には常に一対一で向き合う対象が必要なの。でないと自分てものがわかんなくなってくるのよ」『恋愛的瞬間』

さて、わたしのホロスコープで、月のシンボルは「トンネルに入る列車」である。水瓶座のエネルギーがほぼ最高潮に達し、圧倒的なスピード感・効率性をもって目的に向かって駆動していく。ただ、侵入する先はトンネルだ。やがて水瓶座におとずれるのがただ一人、孤独で、荒野をゆく道のりであることが示唆されている。そんな月を、まるで蠍座は笑うように突き飛ばしてくる。スクエアのアスペクトは、交通事故のように思いがけぬ方向からアタックされることを意味しているらしい。あるいは送電線を勝手に切ってしまう。

エネルギー源が絶たれたときに、わたしの月は茫然と、自分自身を見つめ直すことになるのかもしれない。それからやっと、他者の瞳と出逢うことができるだろう。