わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

やぎだんご、そしてまじめに遊ぶこと

やぎだんご、という言葉を知った。とてもかわいい。わたしは山羊座土星天王星海王星が集合している、やぎだんご世代。やぎだんごの真ん中にMCがあり、ついでに、ちょっと離れて水星も山羊座サインに入っている。わたしの山羊座サインは9〜10ハウスにかけて位置しているので、山羊ファームのやぎだんごである。好きにならざるをえない。

わたしの社会性を担保してくれているのは山羊座なんじゃないか、と思うくらい、わたしは山羊座に頭があがらない。大きなお金ではないけれど、一冊の本や友達へのプレゼントを買うことに困らないくらいの収入が得られているのは、仕事のおかげ。とはいえ、仕事大好き人間かと問われると、はっきりと左右に首を振る。「AIに仕事を奪われることの何が問題なんだ!」と真剣に憤慨しているタイプ(現在は教育機会の偏在や寡占化による富の集中などの課題があるとはいえ)。完全雇用率がなにかの指標をあらわすこと自体、将来的にはなくなってほしい。

それでも、わたしは粛々と会社に通う。言行不一致はなはだしい。だけどわたしは小心者で、起業や独立などの選択肢を選ぶことができない。今、裕福な暮らしではないけれど、食事や旅行、読書に対する(わたしのサイズ感での)放埒な欲求を満たすことができている。ありがたいことだ。太陽・月・金星の水瓶座軍団(11ハウス)が「好きなことだけしていたいよーお金にならなくてもいいからー」とのたまうのを、やぎだんごが諫め、会社に向けて尻を蹴り飛ばしてくれる。一方で、「好きなことをやってもいいが、高みをめざせ!」と、たしなめているのか煽っているのか分からないことも要求される。

水瓶座がぼわぼわ、えへらえへらと考えていることに、マジレスしてくるのが山羊座だ。「おまえは脳内で完璧に結論が出たと思っているが、端的に自分の言葉で説明できるのか?いつもの"なんとなくわかった感じ"でごまかしているんじゃないか?」と詰められる。夜郎自大ナルシシズムの権化であるところのわたしに、容赦なく「客観」の定規を当てる。もっと、やれ。もっとやれば、もっと楽しくなるぞ。

そう、わたしの山羊座、楽しむことにやる気満々なのだ。土星山羊座10度で「手から餌をもらうアホウドリ」、水星の山羊座26度に至っては「水の妖精」。たぶんわたしのホロスコープの中で、トップクラスにうれしそうなサビアンを持つのが山羊座水瓶座は「トンネルに入る列車」(月・14度)とかなのに……。こういうイメージを眺めていると、山羊座、そして土星先生の懐の深さを感じる。

"まじめかふまじめか、仕事か遊びか、労働か余暇か、生産か消費かという、紋切り型の二者択一のなかで、遊びからしだいに〈まじめさ〉が欠落していった。「あれは遊びだったの」という表現にみられるように、遊びは「ふざけ」「ふまじめ」「無責任」の代名詞のようになってしまった。(中略)遊びはしかし、気を抜いたものなのか。「手応え」ということばがある。これは仕事にだけでなく、遊びにもあるはずだ。手応えのない、やってもやらなくてもいいような遊びは、やっていて退屈する。遊びも真剣さを求めているのである。"ー『だれのための仕事』(鷲田清一

遊びも真剣さを求めている、わたしはこの言葉が好きだ。「山羊座は高みを目指す」ことを修行僧に例えるけれど、実は高いところが好きなだけの山羊もいるんじゃないか(もちろん修行好きの修行僧もいるだろう)。野生の山羊は岩塩を摂取するために命懸けで崖を上るらしいが、家畜となった山羊も小山をつくってやると喜んで乗る。どうだろう、だんだんかわいく見えてきたんじゃないだろうか、やぎだんご。

ちなみに先程の本には、遊びと同じく、仕事も自分の限界と格闘すると楽しいと書かれているのだが、そちらの道はまだ入り口にも辿り着けていないようだ……。