わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

水瓶を運ぶ人

水瓶、というからには、なにかが入っていなくてはいけない。「甕」ではなく「瓶」なので、貯蔵用・煮炊き用というよりは、持ち運び用の器なのだろう。形状からして、ひとりで抱えられるほどの重さのものしか入れられない。わたしが遠くへゆくためか、家で待つ誰かのためか、「水」や「酒」を運ぶ。溜め込んでおくと腐ってしまうので、日に何度も、あるいは道すがらで都度補給する必要がある。それがどこで得られるのか、情報がなければ汲みに行くことはできない。また、井戸ならば枯れることもあるだろう。常に水脈を知り、人びとと共有していなくては、命の「水」は瞬く間に尽きてしまう。

「水瓶」が風のサインだということは、このことからもなんとなく了解できる。情報とコミュニケーション。そして「水」を分配し、共同体を生かすためのフェアネス。「水瓶」は己のために、形のない「水」を扱いやすいものに変え、コントロールしようとする。治水、灌漑もまた「風」の役割だ。ある用途に沿って、思い通りの仕事を為すよう、自由に変形させ、輸送し、流れを付け替える。

かく言うわたしは、水のサインが蠍座冥王星(7ハウス)のみだ。しかも算命学や四柱推命の「木性・火性・土性・金性・水性」でも「水性」はゼロ。水のない世界へようこそ。

しかしながら、わたしのドラゴンヘッド魚座サインにある。ホロスコープを読み始めたときは「ふーん」というくらいのものだったが、最近ひしひしとプレッシャーを感じずにおれなくなった。「簡単に言ってくれるじゃないか」と。魚座、水サインの柔軟宮。実はわたし、柔軟宮もゼロだ。わたしのネイタルなホロスコープにないものが魚座ドラゴンヘッドに凝縮されている。これも土星さんの試練なのか?!めちゃくちゃうまくできているな、と感心してしまう瞬間でもある。

当初、「水瓶で魚を飼うのかしら?」と想像していたが、冒頭に述べたように、「瓶」が「甕」ではないことを踏まえると、この連想はあまりふさわしくないだろう。むしろ、魚のために水瓶で水を運ぶ、とするのが正しい。本来は川のもの、海のものであるはずの魚を、人工的な器に移し替えて、生かす。けれども魚は見かけによらず結構しぶとい。環境ががらりと変わってしまっても、水さえ適するように保たれていれば生き延びる。とどまりたいのか、逃げたいのか。その意志は計り知れない。水がとどこおれば瞬く間に死ぬ、それだけが真実だ。わたしは水を汲み続けなくてはいけない。家に、あるいは心に棲まう魚のために。

魚は、何も語らなくとも、海の底の記憶をたたえているだろう。ふしぎと瞑想的な雰囲気を漂わせている人も少なくない。魚座の彼・彼女らは影響を受けやすいと称されるにも関わらず、その目を通して見る世界の光はやわらかいように思われる。水が光を吸収することによって、透過光は青くなる。水は透明ではないのだと言う。「すなわち、水自身が本質的にわずかな青色に着色している」。魚座は潜水することによって真実を知ることになった人びとのことだ。

わたしは、水の世界にあこがれている。いつでも水脈を探しているし、水源を見つけると喜ぶ。こういうことを考えるきっかけをくれたホロスコープも、わたしにとっては「井戸」だ。「魚」の水を新しくするとき、わたしはわたしにとっても水が不可欠であったことを理解する。水を使うことではなく、水を生きること。それがわたしの果たすべき務めなのだろう。