わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

目覚める前に 眠り入れ

睡眠時間は短いほうだ。というか、早起きが習い性だ。ASC牡羊座のなせるわざなのか、平日では5時、休日では4時半に起き出してごそごそと支度をし、外へと出ていく。裁量労働制なので何時から出勤してもよい(たぶん6時半くらいには開いているのだろう。確かめたことはないけれど)。朝は静かで、誰かが話しかけてくることもなく、目の前の仕事に没頭できる。

"ーーそれは早朝の数時間という、いわば一日のうちでいちばん「非社会的」な時間に、孤独にこもった状態で書かれている"

ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(伊藤亜紗

早朝を「非社会的な時間」と述べているところがとてもいい。「早起き」はまるで小学生の標語か、老人のラジオ体操のための言葉となり、健康健全の代名詞とされるが、わたしが実感するところでは、コミュニケーションを避けたい人間の最後のよりどころだ。(ほとんど)誰もいないオフィスに入る。誰の目線も集まらない。挨拶もしなくていい。黙ってかばんをおろし、パソコンをつける。しばらくすると、徐々に同僚が出社し始める。おうむ返しのように自動的に挨拶をかわせばよい。

思えば、小学生のころから、「たくさんの人がいる教室に入る」というのが苦手だった。できれば一番早く席に着いて本でも読んでいたい。出来上がっている輪の中に自然に入る、ということがどうしてもうまくできなかった。真っ先に部屋に飛び込み、居場所をこしらえたら、やがて訪れる喧騒はわたしの味方になる。

結果的に睡眠を軽んじている。天王星は「覚醒」の星だ。その作用は電気にたとえられる。中枢神経系の喜び。肉体から独立した、大脳の幸福。前夜祭的なパワーに突き動かされるまま、「次は何?」「次は何?」「次は何を?」と先へ先へ急き立てられる。不動宮×活動宮の組み合わせの厄介なところで、駆動し始めるとコントロールが利かない。エンストするか、壁に激突してとまるか、そのどちらかだ。

海王星はきっと言う、「目覚める前に眠り入れ」と。眠りの力は、化学反応というよりも醸造だ。わたしはほかのいきものと一緒に、猥雑で混沌としたプールに注ぎ込まれ、攪拌され、いのちのカクテルに成り果てる。「次」も「先」もない。急ごうにも方向性がない。わたしは酩酊して、崖下に墜落する。暗転。

昼寝をすると夜眠れなくなる、という人もいるが、わたしは何時間寝ようと夜はしっかり睡眠をとることができる。寝つきもよい。「いきなりしゃべらなくなったから、どうしたのかと思った」と言われる。自動的。5時間以下の睡眠のときには夢をみない(覚えていないだけかもしれない)。長くなればなるほど、悪夢に見舞われる。夢の中さえ、遅刻をおそれている。道迷い、寝坊(寝坊する夢というのもおかしな話だ)、乗り間違い、あるいはもっと抽象的なものになると、"急いでいるはずなのにノロノロとしか進めない"

わたしには「遅れをとる」ことへの恐れ、そして反転して強い関心がある。行き過ぎて「フライング」してしまうのは、背中を脅かされたくないからだ。弱いものの本能なのかもしれない。競争力のない個体ほど他者に先駆けて安全を確保し、また危険を予期すれば、すばやく移動していかなくてはいけない。元いた場所に帰ることはできない。生々しいリアリティとしては流離の日々であり、「行きて帰りし物語」ではない。

夜では「多すぎる」。夜には夜の社会があり、ルールがあり、他者がある。早朝がよい。日差しも適度にやわらかく、しばし夜の汚雑を駅舎の柱などに見かけることはあっても、人影はない。社会の存在しない時間は、やさしい。

だけどきっと、夜を恐れるあまりに夢をおそれてはならない。居所を転々とする中で、唯一わたし自身のアドレスとなってくれるのは、夢の中にほかならない。NHKチェコ特集で、インタビューされた男性が答えていた。「われわれは何百年も他国に支配されてきたので、心の中に亡命するしかなかった。チェコ人は皆心の中に宇宙がある」。

わたしはわたしの宇宙で安心して眠れるだろうか。