わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

天王星くんとの距離感

天王星くん、水瓶座の支配星。なんだけど、わたしはまだ土星さんのほうに親しみを覚える。天王星くんは自由と革命の星。発明や独創性を司り、個性的で独立心の強い気質を生む。もう文句のつけようもなくかっこいいんだけどさあ、なんていうの?人間味?それが欲しいっていうか(トランスサタニアンに言うべきセリフではない)

でもこないだリズ・グリーンの著書を読んでいたとき、「土星(クロノス)が天王星(ウラヌス)を去勢した」と書かれていて、雷に打たれたような衝撃を受けた。ウラヌスが「異状」の息子たちを冥界の牢獄に閉じ込め、その妻ガイアが怒り、末っ子クロノスを使ってウラヌスを去勢させる。こう考えると、革命・公正性のイメージは、むしろ土星に与えられるべきものなのでは、とすら考えてしまう。

しかしながら、ギリシア神話がおもしろいのは、「歴史は繰り返す」という点。クロノスもまた、ウラヌス去勢の際にガイアが身籠った「異状」の者たちを幽閉し、ゼウスに殺される運命となる。秩序を壊し、秩序をつくり、秩序と共に滅びてゆく。土星天王星は交互に入れ替え可能だろうか。実は、少しずつ違っている点もある。

ウラヌスは単為生殖で生まれ、クロノスは有性生殖で生まれた。そしてウラヌスは去勢されたが、クロノスは(口から)我が子を生み、去勢はされなかった。また、預言をおそれ、石を飲み込み、岩をもって殺された。

反復だが、完全なるコピーではない。変化は不可逆的だ。クロノスが「預言をおそれる」ことから伺える言語の領域の拡張は、完全に土星的なものだと言えるだろう。でも、本来であれば天王星土星の順番のはずなのに、(発見された順番で命名されるから仕方がないけれど)天王星が革命的、土星が封建的なイメージになっているのはおもしろいな。だけど現代から見ると、古代のほうがあらゆる意味で「新しい」ことはある。たとえば、単為生殖。我々の祖先は単為生殖で増えた。そして現代、再生医療研究の進歩によって再び可能となるかもしれない。天王星による「革命」。

去勢が(ゼウスを父とした場合)曽祖父の代でしか起こらないのは、それだけ恐怖の対象であり、タブー視されているということでもあるんだろうか。祖父の代では、記憶として新しすぎる。また、クロノス→ゼウスの代替わりでそれを繰り返すと、"いずれ我々も去勢されうる"との意識が強まるだろう。わたしたちが恐れるのは「預言」よりも法則性、すなわち「科学」だ。

そういえば、クロノスによって断たれたウラヌスの局部がアフロディーテ(金星)になる、というのも、「奇貨」という感じがするね。悪趣味な例え方をすれば、土星さんと天王星くんによる初めての共同作業。美しいものは、もっとも新しい者の手により、もっとも古い者の一部から生まれる。別の言い方をすると、土星さんが産婆、天王星くんが妊婦か。クロノスが口から子どもを産むのもさまざまな連想を許してくれそう。口の中で子育てするカエルがいなかったっけ?それはさておき。

考えれば考えるほど、土星=古い、天王星=新しい、では割り切れなくなってきた。そもそもどんなルールでも陳腐化し、すべての権力は腐敗する。山羊座は前身の社会のルール、組織を壊し、また新たなものを作り出し、維持する。水瓶座の振る舞い方も同様で、対象が倫理、科学、美学などであるだけだ。

ルールは、意識されていないときがもっともよく働いている。でも、古代の人びとはあえてそこに土星を割り振った。それは、「わたしたちが今支配されているルールに気がつけよ」ということなのかもしれない。考えることを可能にするフックとしてあらかじめ用意されている。歴史上、「誰が言ったか」はわからないけれど、こういう思考の枠組みを作り出してきた匿名の人びとこそが、本当の意味で革命的なんじゃないか、なんてことを思ってしまうのだ。