わたしに踏まれた星とわたしが踏まれた星

ホロスコープ1年生。名前は「蜷(にな)」です。

モテる?モテない?

太陽月金星が水瓶座の者です。人生、まったくモテた経験がありません。

星座占いでランキング形式になっているものは多いけれど、恋愛系はその中でもかなり順位にばらつきがある印象だ。

水瓶座が上位に食い込むこともある(もちろん下位に沈むこともある)。それにしても、モテない。

ただ、モテないことで悩んでいるか、と聞かれると「うーん」と困ってしまう。わたしの中の葛藤を、思いつく限り並べてみる。

・恋愛ができないのは、わたしに人から好かれにくい性質があるからだろうか。

・わたしの無意識下での抑圧があり、恋愛感情に蓋をしているのだろうか。

・わたしも現実にふれあうことのできる他者を思いっきり愛してみたい。愛するということを許されたい。

・わたしは、わたしをコントロールしようとしすぎるきらいがある。恋愛によって、自己を他人との間へ、あるいは未来へと投げ出し、自己変容を楽しみたい。

・愛されたいというより愛したい。けれども、愛されない理由があるならば認識しておきたい(克服できるにせよ、できないにせよ)

・恋愛とは自己変容の最たるものだと聞く。わたしも恋愛によって新しいわたしと出会ってみたい。

……書いていて悲しくなってくるくらい、自分のことしか語っていないな。そう、不安はないが、漠然とした不満があるのだ。

ホロスコープを見ていくと、4ハウス(家庭)、5ハウス(恋愛)には惑星がなく、7ハウス(パートナーシップ)が蠍座冥王星で、8ハウス(性)はまた空っぽに戻る。

ハウスに対応するサインとか惑星とかを読まずに、素直に見ると、恋愛や家庭、性というコミュニケーションの場をすっ飛ばして、一対一の没入的な関係性のみを欲しているのではないか。

漁業で、餌を撒いたり、網を張ったり、罠をしかけたりせず、海域の知識もなく、訓練もされていないのに、槍一本で海に飛び込もうとするようなものだ。それで魚が獲れるか?獲れないだろ。

蠍座冥王星のモチーフへの憧れも、こういった恋愛へのコンプレックスから来ている。自他の境目がなくなる、一体化としての愛。太陽月水瓶座のわたしは、他者の合理性を前提として生きている。多様性を尊重する、と言えば聞こえがいいが、踏み込まない代わりに踏み込ませない、観察者や研究者としての姿勢だ。

蠍座冥王星はまったく逆だ。人格の境界線を壊して侵入することを恐れず、同一化をめざす。世間のルール、倫理観からは外れるかもしれない。彼ら・彼女らはあたかも宗教家のようだ。

宗教家になるためには、ある種のブレイクスルーが必要なのだと、釈徹宗さんがおっしゃっている。そして世間とはまったく違う価値観を提示することこそが、宗教の存在する意味なのだと。

わたしは、蠍座の恋愛に宗教性を感じる。そして、それに到達することができなくて、壁の前で(つまりわたしの殻の中で)立ち竦んでいる、と言えるのかもしれない。